賽銭BOX

賽銭としての思考、祈りとしての日記。

231217_続けることについて?

3か月程度も間が空いてしまった。別に誰に公開しているわけでもないのだから良いのだが、ブログを放置しているという後味の悪さだけが微妙に付き纏っていたように思う。まとまった記事を書くのが億劫というのも理由の一つだが、最近はGoogleDocで日記をつけるようになったということが大きい。本当は手書きの文字の方が10年後に読み返した時に「エモく」なりそうだが、僕はその日に読んだインターネット上の記事やツイートのリンクなどを貼りたい人なのでオンライン上で管理したいのだ。

 

話が逸れた。なので、ここでは単純な日記というよりもやはりなんらかのテーマ的なものを一応設定した上で、散文を書くことにしよう。今日のテーマは「続ける」ことについてだ。元々僕は大学の専攻を決める時にSDGsが大流行だった世代で、今となっては素朴すぎる感覚だが「持続可能性」の概念への違和感が興味関心の主体だった。思えば小学生の頃にGDP成長率みたいな指標をみるたびに僕は「えっ、毎年成長し続けなきゃいけないの? そんなん無理に決まってんじゃんww」と感じていたので、そこから進歩していないといえばそうなのだが、まあ人間10年かそこらで変わるものではないので良しとしよう。持続可能性の概念に興味があった僕は、しかし環境倫理学のような文献とにらめっこしても何ら生産的な結論は(自分には)出せないだろうという直観があり、なぜか「生態系の方から攻めるべきだ」という考えに至り、数学が最も苦手だったにも関わらず生態学関連の研究室によく調べもせずに入り、今では院をどうにか脱出することだけを考えている、、という体たらくなのだが。

(余談だが、現代の生態学では極端に生き物に詳しい人間ーいわゆる虫屋さんとか鳥屋さんとか呼ばれる類の人ーか、極端に統計に詳しい人間しか現実的に活躍できるポストはないと思った方がよい。生態学での統計解析はミクロな生命科学分野などでは基本的に通用する「検定」の概念がまともに機能しないケースが多い。加えて検出率の低さ・不均一性やサンプリングの空間的・時間的自己相関諸々を考慮してようやくまともな議論の土台に乗せられる。一言でいえば、統計学の応用問題的な課題がバンバン出てくるのだ。状態空間やベイズ統計の枠組みを理解しないと10年後には最先端の議論に参加することすらできないだろう。

 

また話が逸れてしまった。要は、持続可能性とは一体「どれくらい先の未来を想定しているのか」、期間が分かったとしてそもそも「なぜ持続させなければいけないのか」。こういった根本的な疑問が僕にはまったく世の中の人が考えているようには思えないのだ。タームでいえばやはり未来倫理の話になるのだろうか。とりあえず2030年や2050年を想定する。こんな「とりあえず」で良いのだろうか。また、生態学の希少種保全などの文脈でも、「なぜ」の疑問に真剣に向き合っている人は少ない。ウチの教授はAと言えばA’と、Bと言えばB’を返せるということを得意げに(?別に悪意はない)喋っていてそれは単純にすごいなと思うのだが、テニスのラリーのようにパターナリズムで打ち返せることを誇ってよいのだろうか。それは結局、「自分は」この生物が好きという個人的な理由以外に明確な保全の動機がないということの裏返しではないのだろうか。もちろん、保全活動というのは漸近的かつ予防的にやっていかなければいけないからこういった「とりあえず」の姿勢が重要なのだ、むしろそれで良いのだ、と言われればそれまでなのだけれど。

 

この「続ける」という命題への違和感は、批評の話とも繋がってくる。「僕が」真に面白いと思う批評(ここでいう批評は、社会批評などではなく作品批評をイメージしている。これは僕の限界でもあるが、ひとまずそういうことにしてほしい)は書き手の魂が感じられるものだ。231030 - 賽銭BOX (hatenablog.com

でも単純に考えて、魂を削らなければ批評にはならない。当然削った分だけ批評は書けなくなる。批評にはこうした厄介なアンチノミーが横たわっている。だから僕には、「批評を書き続ける」という行為がいかにして可能なのかが最も分からない。別の言い方をすれば、このやり方には持続可能性がない。でも真に重要なのは、この命題は「それでも僕が批評を続けたいなら」という留保付きの条件の下で初めて成立する見せかけのアンチノミーだということだ。だから僕は批評そのものへの欲望でなく、批評を「続ける」事への欲望こそを自らに問わなければならない。そして多分その答えは恐らくイエスだ。「なぜ楽しいのか?」-この問いは今度購入する群像とかを読んだ上で考えたいが、シンプルに「楽しそうだから」ということに尽きそうな気もする。そして自分の出したシンプルな回答に納得できるようになるのが多分「成熟」ということなんだろうか。とはいえ、それを踏まえた上でメソッドの話に戻ると、現時点で僕が思いつく解決策は3つほどある。1つはコミュニケーションとしての批評に徹すること。魂さえ削らなければいくらでも「とりあえず分析してみた」という批評は書けるだろう。でもこれは面白くない。2つ目は分析のスキルを向上させること。具体的には映像表現の演出技法や、制作サイド、作家の来歴に詳しくなること。一言でいえば(古風な意味での)オタク化だ。魂を削らなくてもそれなりに面白い批評を書けるようになることを目指す道。3つ目は、「批評を書くことによって魂の形を更新する」というやり方だ。常に自身の過去のテクストへの注釈を入れ続けるスタイル。今のところ、2つ目と3つ目の方法を併用していくのが僕の主要戦略となるだろう。

 

長くなってきたのでもう締めようと思うが、ここら辺の話はamazarashiのライブ「永遠市」に最近行ってきたことも影響している。「ディザスター」後のMCで、秋田ひろむは「映画と生活」を対比させていた。私小説的な歌詞によって少なくないファンを獲得してきたamazarashi はしかし、ここにきて映画=作品と生活の境界線が不明瞭になり、いわば「作品を作っているつもりが生活になり、生活を送っているつもりが作品になる」という混乱=病の経験に陥っているのではないか、というのが僕の見立てだ。牽強付会な解釈であることを承知でいえば、永遠市のセトリで最も重要なターニング・ポイントとなっているのは「超新星」である。なぜなら寿命を迎えた恒星の最後の瞬きを「葬式で見上げて」もらえればそれで充分だ、という「妥協」に対し「それでも」音楽を「続ける」という宣言をしているのだから。