賽銭BOX

賽銭としての思考、祈りとしての日記。

親ガチャから考える

親ガチャという言葉がある。親ガチャに外れたなどと表現されるように、親の居住地域や所得階層で子供の学力や将来の選択肢、あるいは人生そのものが決まってしまっているという感覚に裏打ちされた概念である。この概念は肌感覚ではとてもよくわかる。地方に旅行に行くと、車窓からはドライブスルーのファーストフードと中古自動車販売店、GEOしか見えてこない。かつて三浦展ファスト風土と形容したそれは、いまでも地方都市ー郊外のリアルを如実に反映しているといってよい。「旅行で」と記したように、僕は首都圏近郊に住んでいる。東京駅まで電車で1時間半程度だろうか。高校の頃はとても遠いと感じていたが、年齢を重ねた今では大した距離ではないと思う。僕の家は首都圏に居を構え、子供二人を中高一貫に通わせるだけの経済的余裕を持つ家庭だった。両親も表面的に暴力をふるうことはない温厚な人間たちだ。ごく客観的にいって、親ガチャは当たり以外の何物でもない。「この」僕は幼稚なりに政治とか社会とか批評とか文学とか、なんでもよいがそういう七面倒くさい問題に頭を悩ませている。悩ませていることができる。けれども、「仮に」僕がファスト風土が広がる郊外型都市の、食うには困らないが子供を大学に進学させる経済余裕まではない家庭に生まれつき、高校卒業後すぐに就職して働くことが前提となっている状況だったとしたら、僕は現在の思考水準を保てていた自信がまるきりない。職住近接で働き、週末は友人家族と少し離れたショッピングセンターに出かける—あまりにもコテコテで書いていて笑ってしまったが、とにかくそういうマイルドヤンキー的な生を送っていたとして、そこに哲学や思想の入り込む余地など果たしてあるのだろうか。誤解のないよう強調しておきたいが、僕は両者の間に優劣をつけたいのではなく、両者の間を想像することの絶望的な難しさについて考えたい。

 

「親ガチャ」というとき、少し考えてみればそれがおかしな表現であるとわかる。Wikipediaによると親ガチャのガチャの部分は語源的にはスマホゲームのガチャ=ランダム型アイテム提供方式から引っ張られているらしい。確率論的試行の観点からすれば、どう考えてもガチャを回しているのは親の方である。同じ日付に性行為をしても同じ精子卵子が受精するとは限らないし、受精の過程で遺伝的エラーが発生する可能性だって大いに存在する。どのような子供が生まれてくるか(そもそも生まれるか)はまさに確率論的試行であり、いうなれば子ガチャである。この当たり前すぎる前提が半ば忘れ去られ、親ガチャという不思議な単語が相当程度広く流通していることをもっと考える必要がある。

 

ところで僕がこんな文章をつらつら書き連ねているのはひとえに僕の人生がやや行き詰まり始めたことに由来するのだが、そこにも親ガチャ的な確率論的試行=思考の問題が関係しているのではないかと最近感じている。仮に人生の出力的ななにかを縦軸にとった2次関数を考えてみる。そこでは親ガチャ的な条件の変化はそもそものパラメータの変化として捉えられる。y=x^2の人生か、y=2x^2+100の人生かは親ガチャで決定し、2つの関数の間を横断する術はない。関数は乗り換えられない。ここで僕が強調したいのは、そもそも関数が異なってしまえば変数の値域がもたらす影響は相対的に小さくなるということだ。いくら与えられた値域のもとで説明変数を最大化しようと努力しても、そもそもの関数に内在するパラメータの違いほどには出力に違いをもたらさない。

 

パラメータとか変数とかの用語の使い方が間違っているような気もしてきたが、このまま進もう。要するに、人生の出力なんて結局スタート時からの確率論的試行であらかた決まっちゃってるんだぜという主張は、一方で「親ガチャに外れた」と思う者を絶望させ、他方で「親ガチャには外れなかった」と感じる者に対しては自身の努力が影響する範囲の狭さを想像させ諦念に陥らせる。そのように僕は感じている。生まれも進学先も人間関係も君が今日食べた朝ごはんも全ては確率なんだとうそぶくことは実に簡単だ。だってそれは紛れもない事実なのだから。けれども、確率論的な試行=思考に全面的に支配されることは容易にニヒリズムに繋がる。主体性が欠如する。偶然の結果でしかないものを一度受け止め、それでも必然だと捉えなおして生きていくこと。これが、今の僕がやっていかなければいけないことであると思う。最後にいきなり物語シリーズの話に飛んで訳が分からないと思うけれど、僕の見立てではこの主題に手ひどく失敗したのが千石撫子で、ずっと苦しんだのが阿良々木暦、そして初めから事も無げに正解にたどり着いていたのが戦場ヶ原ひたぎだ。とはいえ僕としては、戦場ヶ原の考えが望ましいと頭では理解しつつ、まずはあの可憐な千石撫子のどうしようもなさ、情けなさ、みっともなさーそんな感じの醜い感情を直視していこうと思う。