賽銭BOX

賽銭としての思考、祈りとしての日記。

<線>について、いくつかの断片

最近は<線>について考えている。僕は昔、線が嫌いだった。いや、今でも嫌いだ。自宅から最寄りの駅までの、いつまでも代り映えのしない一本道。季節の移ろいにこそ敏感に反応しそれはそれでとても美しいー桜の名所は数あれど、僕は最寄り駅に至るその桜並木が世界で一番美しいと思うーけれど、それだけの道。毎日同じ時刻に駅へ向かい、同じ時刻に駅からそれぞれの家へ向かう人々。一本道だから追い越すのにも気を遣うし、歩くスピードが同じくらいの人がたまたま前にいると尾行しているような雰囲気さえ出てしまう。そんなに嫌なら迂回すればよいのだが、気づけばまたその直線をとぼとぼと肩を落として歩いている。最短距離だからという理由以上に、そこにはどうしようもない諦観が漂う。

 

最寄り駅までの<線>は、すぐに鉄道という別の<線>に切り替わる。以前少しだけ書いたが、首都圏近郊の自宅から東京に出るまで、基本的に途中下車は許されない。途中下車しても別の迂回路で都内に出るには、相当東京に接近してからでないとだめだ。<線>から、また別の<線>へ。高校生の僕は、何十年後も相も変わらず同じ路線に揺られて東京へ向かう自身の姿を想像して心底恐ろしかった。気味が悪かった。

 

<線>のイメージ。それは「ある終着駅」へ向かう一本の線路のイメージでもある。一度乗った列車は途中下車することはおろか、切り替えることもできない。「この僕」は与えられた「この」条件でー居住地、両親の所得階層、性格、経歴ー残りの人生を生きていくしかない。それがある「エンド」に必ず向かうものだとしても。

 

けれども同時に、<線>のイメージ、つまり「この」生の偶然性に少なからず助けられているのもまた事実である。高校卒業後ほとんどの知人と縁が切れた僕を、繫ぎ止めてくれている友人たちは、まさにその<線>=<路線>を共有していたことによって僕と友人になってくれたのだから。<線>のイメージの中には、必然性と偶然性が同時に宿っている。線の内部にいる限り、線がもたらす諸々の条件は必然的に僕を縛るものとなる。でも少しだけ視線を線の向こうへ、線が「できなかった」かもしれないという偶然性の様相を差しはさんだ時、はじめて<線>がもたらす生の条件を正しく分析できる。

 

今日は少なからず酔っている。論理的な思考が展開できない。けれども、この短い文章で記したことは間違いなく僕のコアとなりつつある信念だ。