賽銭BOX

賽銭としての思考、祈りとしての日記。

231030

ずいぶんと間が空いてしまった。やはりこうしたものを長期間続けられる人は本当にすごいと思いつつ、珍しく酔っていない頭で久しぶりに思考を書きつけていく。

 

お手軽に「私は狂っている」と主張出来てしまう時代に、「本当に狂う」ことはできるのだろうか。大袈裟にいえば最近はそんなことを考えている。僕は同人誌に一本寄稿しただけで批評(という単語をあえて使う)の主要プレーヤーではまるきりない。傍観者も良い所だ。それでも究極的には自分の文章が「世界で一番」面白いと思っている。このやり方でこの作品と格闘できるのは僕しかいない。技術的な話は置いておくとして、少なくともそう思いながら書いている。だから僕の(批評の)評価基準はあくまで作品ベースで、作品とどの程度の水準や覚悟をもって格闘しているかを判断している。

 

一方で批評は先に僕が述べた作品と読者の1対1の関係を指向するが、他方で批評には属人的なコミュニケーションの性格が付き纏うのも事実だ。そこでは「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」の方が重要視される。このシーンにおいては、作品読解は文章の目的ではなく手段となる。格闘の軌跡を追うのではなく、「こんな題材で何万字も書いてしまう自分」という狂気の演出の道具立てとなる。批評は格闘するものではなく、分析の手順自体は「民主化」されることが望ましい。

 

はっきり言って、僕はそういう魂胆で書かれた文章なんてゴミ以外のなにものでもないと思う(自戒も込めて)。1000円とか1500円も出してゴミを読む気持ちになってほしい。そこに載っているのが自分には解読不可能な、同じ日本語を使っているはずなのに別種の「狂気」ならまだ良い、というかむしろ良い。でも内輪のコミュニケーションツールとしての消費財でしかないものだとしたら、それは、、

何なんだろう。別に買わなきゃいいだけの話かもしれない。僕は狭義の意味での創作をしたことがないけれど、創作をやる人の苦しみは少しだけ(それもだいぶ烏滸がましいが)わかった気がする。どう考えてもゴミみたいな文章が、自分より何十倍、何百倍も評価されているのを見ると、「その分妬みや恨みがたまって」いくのがわかる。

 

(231217追記)

いや、外から見たら分からないだけで、本当は各々魂が賭けられているのかもしれない。結局、自分にできることを粛々とやっていくしかない?