賽銭BOX

賽銭としての思考、祈りとしての日記。

非対称性に苦しんでいる

人の感情ってどうしてこんなに非対称なんだろう。恋愛をちゃんとやれている人間がとっくに通過したであろう問いに、未だに僕は囚われている。

 

SNSは見知らぬ人と繋がるからコミュニケーションの問題を引き起こすのではなく、むしろ見知った人とのコミュニケーションに非対称性を導入する所が問題なんだと思う。フォローバックもそうだし、DMには返信しないけどツイートはするとか。僕がある人物に興味を持つ事は、相手が自分に興味を持つ事を全く保証しない。当たり前すぎるこの事実が、SNSでは過剰に可視化されて辛い。

 

結局、誠実さとは何を指すのだろうか。ある人を切り捨ててある人は助ける、そういう境界領域の確定が誠実だという事なのかもしれない。

賽銭箱としてのブログ

名前をつけるのがとにかく苦手だ。DOUTORで1時間も迷った挙句——店員の視線との戦いだった——、アイスコーヒーの濃度と引き換えにこのブログには 賽銭BOX という名前をつけることにした。文字通り賽銭箱のことを指している。漢字で賽銭箱とだけ書くと間が抜けた感じだったので、講談社BOXのノリでローマ字にした。最初にドメインをsaisenbakoで取得してしまったので、泣く泣く2つ目を開設して選びなおしている。(細かいことだが、ブログタイトルとドメイン名が不一致だと非常に気になるので......)

再選、細線、再戦、賽銭。

 

え? 賽銭箱? なんで? 

 

いやホント、なんでこんな名前をつけてしまったのだろうか。ブログの命名にセオリーがあるのかは知らないけれど、普通名詞をチョイスするのはあまり一般的ではないように感じる。検索エンジンにも引っかかりづらいだろうし、どんな記事が載っているのかも皆目見当がつかない。端的にいってあまり気の利いたネーミングセンスではない。新学期初日の自己紹介で妙に尖ったことを言いつつでも悪目立ちはしたくない——そんな感じの、「特殊でありたいといういささかも特殊ではない一般的な」動機である。

 

けれども、さすがに他ならぬ僕自身が名づけたのだからいくつかのもっともらしい理由を述べることくらいはできる。

 

まず直接的な契機は、ここ最近Twitterの動向が不安定になってきたことに求められる。現在は小康状態にあるとはいえ、閲覧数制限などの措置がいつ何時復活するかはわからない。半公共の情報インフラ——言論空間を運営している自覚を持てなどとイーロン・マスクに言っている人もいたと記憶しているが、そもそも一私企業や実業家に過ぎないものに公共性(?)を求めても原理的に仕方ない。それにこの手の議論はGoogleが登場したときに散々やられていたのではないだろうか。

 

とはいえ、1ユーザーの立場からすればやはり非常に困る。自分にとってTwitterは文字通り思考未満の「呟き」を放流する場だった。殆どの場合何の反応もないそれは、しかし常に誰かに見られるかもしれない、反応されるかもしれない。「どうせ誰も反応しない」と「でも誰かは反応するかもしれない」という諦念と期待に挟み撃ちされることによって、思考未満の何かにいくらかの知的緊張が保証される——大げさにいえば自分はそのようにTwitterを使っていた。当然のことながら、この条件はユーザーが激減してしまえば成立しないし、自分しか見ない日記でも成立しない。まあAPI取得制限に達して何も映らないタイムラインもそれはそれでポストアポカリプスものみたいで悪くなかったとは言っておこう。

 

でも小康状態なら別に新たにブログを始める必要はないし、むしろ閲覧可能性が落ちているのでは? この疑問は当然だが、単純に文字数の問題だ。(閲覧可能性は元々低いのでちょっとばかり下がっても気にならない)Twitterは無料版では140字までしか投稿できない。ここまでブログを始めるにあたってありきたりすぎる動機を長々と書いていることからもわかる通り、僕は文章をまとめるのが非常に下手だ。簡単なことを迂遠に書いてしまう。あるいは言い切ることに躊躇してしまう。どうせこんなに面倒くさい思考形態ならば、文体をTwitterに適合させるよりも、一人で長々と書き連ねられるブログの方が性に合っているように感じた。それだけのことだ。もちろんTwitterもそれなりに続けるけれど。

 

なぜブログを始めるかについては整理し終わった。次はなぜはてなブログなのかについてだ。実は以前に少しだけNoteに手を出したことがある。2本ほど記事を書いて挫折したので何も偉そうなことは言えないのだが、改めて考えてみるとUIが僕にとっては窮屈だったのかもしれない。Noteではフォロワーの数や記事についたスキの数が目立つような設計になっている。「お題」や運営によるピックアップも盛んに行われている印象がある。文字数を尽くすのであれば何かきちんとしたもの——タイトルや目次がしっかりしていて、オチもちゃんとある——を出力する方が望ましい。そんな雰囲気を(勝手に)感じ取ってしまったのが長続きしなかった要因だと思う。その点、はてなブログではこれらのSNS的要素は目立たない設計になっており、気楽に「思考未満の何か」を放流できるような気がした。また、個人的に良い文章を書くと思っている人達の多くがはてなブログ派だということもある。

 

さて、ようやく命名の話に移ることができる。思考未満の何かを放流する行為を、「壁打ち」と呼んでいる人を見かけたことがある。なるほどこれは良い、タイトルは「壁打ち場」に決定だ——嘘。ちょっと待ってほしい。壁打ち場と聞いて僕はすぐにスカッシュを想起した。子供のころ通っていたスイミングスクールにはスカッシュコートも併設されていて、大人たちが黙々と反射してくるボールを打ち返していた。真冬だというのに汗を流し、早く打つほど早く跳ね返ってくるボールと格闘していたのを憶えている。いくらなんでも激しすぎる。思考未満の何かが爆速で還ってきては情緒も何もあったものではない。それにスカッシュコートは基本的に閉鎖されている。熱心に打ち込んでいる所にのこのこ見物人が入っていっては危ないからだ。僕としてはそこまでのストイックさや閉鎖性をこのブログに求めようとは思わない。

 

投げ込んだ思考の断片が時間差をおいてゆっくりと反射し——しないかもしれない——、1人で気楽に訪れることができ、かつ過剰な閉鎖性を有さない静かな場所。僕はそんな意味を込めてこのブログを賽銭箱と名付けた。賽銭箱に小銭を投じる行為は一見ただの神頼みだけれど、時には「あの時五円玉を投じて何かを祈った」ことが回帰して現在の思考や行動を変容させるかもしれない。賽銭は諦念と期待に挟み撃ちされた祈りだ。あまり行儀がよくないが、時には賽銭箱をひっくり返してみるのも良いかもしれない。(いや、これは普通に犯罪か?)賽銭箱はフローとしての思考を少しだけストックする。時間のずれを生じさせる。そして時には別の誰かが小銭を投じているかもしれない。あるいは小銭を投じないまでも、僕が小銭を投じるさまを遠巻きに眺めているかもしれない。メタファーの使用には常に慎重になるべきで、思考の断片を貨幣に例えるのには少し違和感がある。思考は計量も分類もできない。けれども、本当に雑多なものを投げ込む場所としては闇鍋とかゴミ捨て場くらいしか思いつかないし、今の僕にとっては少しくらい不完全なメタファーがちょうど良い。名づけとは常にずれ続けるものだから。

 

そんなわけで、この賽銭箱には日々の雑多な思考を投げ込んでいこうと思う。といっても、場合によっては少しかっちりしたものを書くかもしれない——財布の中から時折綺麗な小銭を探してみるように。